青色信号

雑念

求神経

人間には様々な感覚がある。5分も観察すればその人間においてどの感覚が優勢かすぐに分かる。個人的に視覚優位な人は苦手率が高い。自分も視覚優位のくせに。私はそれを職場の人間関係でも使う。いつも苦労はしない。自分を捻じ曲げてかわそうとするのってダサい、強く押し倒すのもスタイリッシュじゃない。踊れ。相手のリズムを読んで。こちらのビートに乗せて。人間は心臓のビートで生きているのでバウンス・フィールでどうにでもなる。


視覚や聴覚はハブとなる核を経由する。嗅覚は唯一それが無い。どこも中継せずに大脳皮質へ届く。取捨選択がなく1番ダイレクト。愛のために今日まで進化して愛のために今日まで退化した人間は12の神経のうち1番嗅神経をおざなりにしたらしい。なんせ香りが分からなくなってもケガはしない。


せっかくなので代官山でしか見られないものを見よう。ひとりぼっちの路上でさくさくと“代官山 香水”をググった。そういえばいつか勝田さんがインスタに上げていたヨーロピアーンな雰囲気のお店が気になっていた。住所を見ると恵比寿と書いてあった。このへんの土地勘は無いので距離感が心配になったが徒歩7分程度、駅までの道は分かっていたので苦ではなかった。

店の名はオフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー。私はジョーマローンとかディプティックが嫌いなので、意識が高い感じが鼻についたらどうしようと心配したがそんなことは無かった。半地下の店内はクラシックな内装で旅行気分になれた。天井までの高さのあるダークブラウンのガラス棚には高浮き彫りでライオンやゴブリンの顔、螺旋状の柱が彫られていた。棚と窓枠はアーチ型で統一されており、床は水色と白のチェック柄のタイルだった。路面側半分の天井は電球などなく、全面がすりガラス状の照明になっていた。西洋絵画の天界のように広い面として光が差す。戸棚側半分の重厚で禍々しいインテリアを明るく清らかな雰囲気にまとめていた。


安心、サンタ・マリア・ノヴェッラの仲間だ。と思った。店員さんも落ち着いており、店内の客が私ひとりだったためか全アイテムの説明がゆっくりと聞けてよかった。代表的なバラやすみれはもちろん素敵だったけれど自分の好みでは甘く感じた。森の香りは本当に苔むした大地の香りがリアルで、リアルすぎてつけるのに勇気が必要だと感じた。ヒノキや白檀は、街で纏うことにロマンを感じず、家の中でお香で楽しめばいいかなと思えてしまった。ハニーサックルは手持ちのアニックのル・シェブルフォイユと被った。続いてルーブル美術館コラボのシリーズを紹介してもらった。ここはお金持ちタウンなので、一度フランスに行った程度の私が「行ったんですぅ」なんて言うのも恥ずかしく、黙って聞いていた。私はルーブルで女性らしさを感じたのは他の作品で、実際にミロのヴィーナスを見た時は「でかいな」というのが率直な感想だった。その女性らしく、柔和でエレガントな香りと自分の貧しいイマジネーションのギャップに笑いそうになったのだが、笑ってしまったら変な人なので我慢した。ニケの香りも同様だった。もっと潮気の強いイメージ。そして、『庭園での語らい』をテーマとした香りを紹介された。その絵画は残念ながらあまり記憶には残っていなかった。男女の初デートのような甘酸っぱい作品。ガラスの試香瓶をパフッとすると、脳の深いところで10年近くフツフツしていた執念が一気に煮立ってブワッと吹きこぼれた。


私にはずっと大切な香りがある。高校生の時に買ったヴァンクリのファーストプルミエブーケ(ファーストではない)。ベルガモット、リリー、グリーンローズ、ジャスミン、サンダルウッドを使用したそれは、フレーバー紅茶を想像させる透明感とわずかな苦味を感じる不思議な香りだった。当時誕生日に友達からランバンのエクラ・ドゥ・アルページュやフェラガモのインカントチャーム、マーク・ジェイコブスのデイジーなどを貰った。けれどこの香りが気に入りすぎてプレゼントたちは使えなかった。それ程愛していた。どうしても忘れられない。


今までたくさんのお店を巡り、ファーストプルミエブーケに似たものを訪ねてきたが見つかりはしなかった。そもそも存在自体がマイナー過ぎて、(ファーストは有名だけど)伊勢丹新宿本店のフレグランスコーナーの店員さん1人しか、香りを知っている人に出会えなかった。その上で「あの香りに近いもの……無いですね」と言われてしまった。東京で探せば見つかると思い込んでいたからショックだった。

『庭園での語らい』はペパーミント、ベルガモット、ローズ、ムスクを使用した香りだった。かなり近く感じる。清廉な香りだ。調香師のドロテー・ピオさんという女性は自身のシャイな性格を作品と重ね合わせて作ったそうで、どうりで無駄な人肌感や刺激を感じない香りだった。ついに出会ってしまった。最高すぎて鳥肌が立っていたが必死に平静を装った。


ド重い想いを抱えながら、勢いでミロのヴィーナスも買った。イメージと合わないだのとほざきながら香り自体は好きだ。ジャスミンマグノリア、アンバーなどを使用していて温度感があるがセクシーにならない。柔和で上品。ギリギリの重さ加減が素晴らしい。ジャン・クリストフ・エロー大先生流石です。冬に付けたりベッドルームで使いたい。ついでにミントと柚子のオイルも買った。キリッとして清潔感のある香り。髪につけていたら意外にも夫にベタ褒めされた。嗅神経は大脳皮質へ直接投射される。香りの感覚刺激は取捨選択ができない。逃れられないんだよな。