青色信号

雑念

春を感じる

高校生のとき、科目によって席順が違った。50音順。その並びは1番嬉しかった。理由はふたつあって、ひとつは後ろのほうで先生の目を盗んでのんびりできること。もうひとつは、私の後ろにヤナギくんがいること。ヤナギくんは授業中よく寝ていて、突っ伏した頭から伸びる黒髪が私の制服を刺した。痩せ型で切れ目でそんなにお喋りじゃない。パッと見冷たそうなのにクラスの皆からとても愛されていた。

学校生活の他の場面では特段つるんでいなかった。50音のときだけ、お互いなんとなく早く席についてお喋りをした。

「母さんがさぁ、フラワーアレンジメントの教室に通いだしたんだよね。家中薔薇だらけなの。それがカラカラになって、色褪せて、ドライフラワーちゅーの?俺は美しく思えない。吊るされた男みたいに見える」

「ねェ、俺速報。こっそりバイトはじめた。音響のアシスタント。いいでしょ。モノノベさんもこっそり音楽のバイトやってるって聞ィーた。マジ?」

「俺さ、この間話してた看護師のモモちゃんに振られた。ありえん。もー女の子不信。1回味見させてもらったから、まぁ、良い思い出ってことにするけど」

違った。全然。ヤナギくんは人の間合いにスッと入って、話を聞くのが上手い。謎の包容力がある。だからいつもみんなの中心にいる。 そう思っていたのに。50音のヤナギくんは、1人称が多い。

「お願いだからノート貸してー。その代わりに、俺の必殺技を見せてやろう」次の日、私の手に戻ってきたノートには走る馬の絵が描いてあった。筋肉質な馬の体に艷やかな毛が波打っていた。後ろ足で大きく地面を蹴り上げる、ヤナギくんのペラッとした雰囲気とかけ離れた逞しい馬。後で知ったことだけど、お祖父さんは元々画家で美大で教鞭を取っているらしい。私はその日、おそらく初めてヤナギくんに対して言葉をかけた。いつものペラッとしているお喋りじゃない、彼自身についてのこと。「ヤナギくんの鋭い感覚、いつも良いなって思う。心地良い」それを聞いたヤナギくんはニッと笑った。みんなに向ける笑顔とあまり変わらない気がしてムッとした。


2月のある日、午後から天気が荒れて雨が降ってきた。50音の席に着くと後ろから声がした。「今日、傘忘れちゃった。帰りバイト先まで送ってって」バイトのことはみんなに大っぴらにできないから仕方ないよな、それだけの感情で引き受けたつもりだった。しかし、授業が終わると妙に緊張が湧いてきた。昇降口で一緒になって、目を合わせずに横並びで靴を履いた。傘を持って玄関を出ようとした瞬間、ピタリと雨が止んだ。明るくなっていく空を見て「止んだね」と呟いて、私たちは別々に帰った。

次の週の金曜日、また雨が降った。空は濃い灰色で土砂降りだった。50音の席に着くと、いつものように後ろから声がした。「春だねェ」この天気のどこが春なのか。理由を聞くよりも先にヤナギくんは言った。

「俺さ、モノノベさんのうなじを見ると、春を感じる」

思ってもないところを舐められたみたいだった。何かの本で、ひとつ先の季節を意識して体温調整をしたほうが自律神経に良いと読んだ。思春期の私は色んなバランスを崩しがちだった。楽になりたい。その一心で9月になれば髪を伸ばし、2月になれば短くした。私にとっては、ただそれだけだったのに。なんだか急に相手が性的にみえてきてしまった。見つめられる首筋がヒンヤリして、顔はかぁっと熱くて、悟られないように必死で平静を装った。ドライブに連れて行ってくれる年上の彼氏もいたし、決して経験が少ないほうではなかった。なんならヤナギくんより遊んでいた筈だ。なのに、どうして良いか分からない嬉しい感覚にさせられた。

週末、彼氏に会う約束を破った。月曜日、思い出さないように気をつけながら登校した。それなのに、50音になっても私の後ろには誰も居なかった。理由はクラスの誰も知らなかった。もう少しくらい優しくして欲しかった。


最近、髪をバッサリと切った。次々にどうしたの?と聞かれる。秋頃に知り合った人からすると退職を決めてヤケになっているように見えるのかもしれない。「春だから」だ。髪を切るのは。だけど、「春だから」とは言いたくなくて、誰にも言いたくなくて、薄ら笑いで「冬毛を刈ってきました」と言った。「あはは、モノノベさんらしいね、ウケる」と言われた。それで良い。


髪を切った日、帰宅するなり夫が「陶子さんはやっぱりショートが似合うね」と言って抱きしめてくれた。私の扱いが上手だ。しかし、この時期になると短くするという法則にはまだ気付いていないみたいだ。私にとっての春は、暖かいぽかぽかとした日差しではない。首筋がヒンヤリすることに「春を感じる」。まだ当分は私の春はヤナギくんのものだ。