青色信号

雑念

レセプター

正直に言うと、人から貰って困ったものがある。赤と青のハートの柄の夫婦箸、ラメ入り。ロゴプリントの派手なペア寝巻き、パジャマと言い難い感じの。ハート型のまな板、食材をこぼしやすい。えも言われぬ、おかん風味に満ちたものたち。

しばらく前に渋谷でおかんアート展なるものが開催されていた。抑圧された女性たちがお金をかけずに精一杯魂を表現した作品たちだ。おかんアートとは絶妙にダサく商業価値を産み得ぬ生産性の低いモノであるらしい。


私の母は芸術関係の生業なので与えられるものは子供向けにしては落ち着いたデザインばかりだった。キャラクター物は最低限で、あったとしても母の手刺繍で色調補正されシックに落とし込まれたものやワンポイントに品良くデザインされたおあつらえのものだった。周囲の大人からは良いものを身につけていると褒められ、まるで自分が特別になれたようで優越感を感じていた。プリントTやキラキラした靴は手に入れたことが無かった。そもそも憧れる隙が無かったのだ。

3の時にうっかり、ハローキティは可愛いと思うけど身につけたいと思わないと発言してしまったことがある。ツーッと冷たくなる空気に慌てて話題を変えた。現代風に例えると、推しは素敵だと思うけど、推しの姿のプリントTもアクスタも缶バも身につけたいとは思わない。私にとってはこの抵抗感と同様だ。

自分の外のものを素直に自分と同一化できない。自分の凹があれば自分の凸で埋めて隙を与えない。生物としての自他の線引きや猜疑心。それが強過ぎた。可愛い子供ではない自覚はそれなりにあったが、自分自身のことを客観的な視点を持った大人っぽい子だと思い込み高みに登った気でいた。

実際は斜に構えたスタイル自体、他人の価値観のレールの上だからこそとれるポーズだった。そのポージングは私の足元をぎこちなくした。四肢の感覚の柔らかさを閉ざし、心の奥行きをの狭いものにしていたと今になって思う。怖がりの、カチコチの、ギチギチの、躍動感が無い子。かがやきの無い子。


小さな頃他所の家でハウスダストアレルギーを起こし気道閉塞したトラウマなのだろうか。自分の感覚と違うものを自分のテリトリーへ招くのは怖くて堪らない。今でも。情けないくらいに。私の母親におかん的要素が皆無だったことはおかんアイテムたちとの間合いにきっと影響していると思う。


それでも、宝物にしているものがある。ナカムラのおばちゃんの折り紙だ。私の退職の時に折り紙で薔薇の花を折って、箱に詰めたものをプレゼントしてくれた。何かに行き詰まる度に引き出しを開けてそっと取り出す。立体の薔薇は本物のように壊れてしまいそうで、儚げだ。元々はベタ塗りの一枚の紙であることは知っているが、私はこの薔薇から確かな息づかいを感じる。おばちゃんの優しくて温かな感情が、私の視覚を通して流れ込んでくるのだ。

ハート柄のお箸が既製品だとしても、その人がくれた時点で、オリジナルの愛情の形である。なのにどうしても受容が出来ない。

おばちゃんのプレゼントはまごうことなき、真・おかんアイテムだが、かけがえのない大切なものだ。一体何が違うのか。病院のベッドの上でしばらく考えた。とどのつまりは私がその人を信頼しているかどうか帰依するのだった。不信な相手の凸は阻むのだ。簡単に受容体を開けていたら、相手の凸のせいで気道が詰まるかもしれない。


退院して自宅に戻ると役割の無い彼等がキッチンやクローゼットに佇んでいた。走馬灯を経験して色んな部分が書き変わってしまった私でも、彼等とどう付き合っていくかは対処法に悩むままだ。夫が触らなかった私のドレッサーには薄ぼこりが被さっており、それに触れた私は大きくくしゃみをした。少しのサボりくらい受け入れたかったのに、カチコチの、ギチギチの、アレルギーの子のままだった。