青色信号

雑念

しばらく、つかのま、ながいあいだ

エコーのヘッドが当該の場所に当たると、びゃくんびゃくんと大きな音が鳴った。

子供の大泣きの終わりの、切なく搾り出される嗚咽に似ている。

目を丸くした私に看護師さんが言う。これは赤ちゃんの心臓の音じゃないのよ。臍帯血の、つまり、臍の緒を流れる血の音。凄いでしょう。そんな事を言われても感動なんてしなくて、へええええぇなんてグロテスクなミュージックぅ、という感想しか湧かなかった。


入院中、宇多田ヒカルの曲しか受け付けなかった。不思議だ……と思っていた。しばらくするとVogueに彼女のインタビューが掲載された。凄まじい内容だった。

かくいう私はオキシトシンが出ているのか心配になるような母性の無さで、立ち読みのたまごクラブやインターネットで情報収集をする度、皆さんハイで羨ましいですなー。という嫌味な感想しか湧かないのであった。

ヒカル(敬愛を込めてそう呼ぶ)のインタビューを読んで深く安堵した。それと共に心の中で、ですよねぇ!!と絶叫した。ヒカルだってそーなんだ、ヤッタヨカッタイェイ!私も頑張るわ!!!という気持ちになった。


別段腹のことを愛おしいとも思わず、日々人体のフォルムが変わっていくことを「すごい」「改造じゃん」と眺めている。

ただの宿主。べつにそのままで良いのだ。きちんと栄養と休息をとって、別の存在として尊重はしているんだから。


ちょうど昨年の2月頃にマジで子供欲しくねぇウンタカッカッタみたいな日記をつけていた。振り返っても確かに私がいた。笑う。自慰日記が本当に慰めとして作用したのは初めてかもしれない。


お腹が大きくなった現在でも、抵抗感は変わらない。

この世界に対して自分のことをそんなにたいそうだと思っていないので(自分そのものは大好きである)この世界に私のDNAを残したいとは特に思えない。私のDNAから出来た子なんて苦役背負いすぎ〜。とすら思っている。(自分そのものは大好きであるPart2)本人が幸せかどうかは本人が決めることなんだけど、産む行為自体がそもそもエゴの塊で、そこを避けて通れない。しかし半出生主義なのかというとそうではない。どうも自分の心中がフワッとして落ち着かないのでもう一度勉強し直してメンタルの調整をかけないとマズくなりそうに思う。


ハイだと醒めた目線で見つめるのは、自分の遺伝子から出来た他人に対し、自分の人生の焼き直しの如く色んなものを着せたがる人たちがおぞましいからだ。生まれてはじめて思い通りに操作できる他人への支配欲。厚着は見苦しいので嫌いだ。

右見ても左見ても知育、知育、知育。絶対損しないやり方、情報。コンセプトは、理念は、美学は一体どこへ消えた?能力の増大を自己目的化した教育の実践をあけすけに晒しながら、都合の良い所だけ、自分らしさ、多様性〜、ジェンダーSDGs、えぇそうですか。もちろん幼い生き物なんて最初から選択できる能力が備わっている訳ではないのでレールを敷いてあげることは大切であるし、教育の拡充は善いことだけれども。

そもそもDNAが(ポテンシャル!)個人で違う訳で。子供云々の前にそもそも自分と向き合ったことはある?自分自身の当事者として。という気持ち。有能になるために順序通り生きるなんて生きてないのと一緒だと思ってしまう。


凸凹な、生身の人間が沢山いるから世の中は美しく豊かなんじゃないの?偏りのある人間であっても包容していける社会にしたいんじゃないの?

自己肯定感、多様性と言いつつ社会は冷たい方向に走っているように思う。実際に地球の変化は大きい単位でみると氷河期に向かっているらしい。


(冷たいという感覚は私のポジティブな体験の不足に起因する部分も多い。個人的な差別と偏見に過ぎない。かといって個人な体験の集まりが社会でもある。今自分でも咀嚼が難しい。妊婦メンタル〜これを記した1年後の振り返りが楽しみでもある)


最近、仕事の場面以外で自己肯定感や自己愛という言葉がひとり歩きしているのを見かける。

アラ、そんな所をひとりで歩いていたら危ないじゃない。そう言いそうになる。年取ると説教臭くなるって本当だ。

SNSに留まらず、ユマや同世代の友人の口から聞こえてきてマジかとなった。情報化に反して経済は貧しくなり、他者との線引きの必要性が高まったのだ。

しかし本来の(専門用語としての)自己肯定感というのは他者から認められて得るもので、自分で満たすことは大して必要ない。

もちろん自分の特性を想定することは重要だが、情報化とコロナで身体感覚を通しての交流が経たれたことのコンボが、自分を愛することくらい自分で責任を持てという自己責任社会の、自慰の(自助の)協調になっている。

感覚的で良かったことにも過剰な考察が求められ、波があることが許されず水に流せる寛容さが無いのだ。

そうしていると溺れて何も見えなくなったり、小さくかたく干からびてしまう。


私は家を買う時、不動産業者の持参したアンケートを見た。「名門である〇〇学区なのでこの家を購入した」均整のとれた賢そうな文字だった。それらが脳裏に焼きついて離れない。灰色のパサパサとしたコンクリートで出来た我が家。そのエレベーターに乗ると二桁階の子たちはちんまりした身体で流暢に英語を話している。この齢の子の脳の領域、第二言語の方に振るんだ。ヘェ。フゥン。と完全な悪意が私の頭によぎる。職場のカンダさんが自分の子供の保育園の教育プログラムの素晴らしさを語り、うちの子は逆立ちで歩けて英単語も喋れるのだと目を輝かせて話していた。昭和生まれの彼女の幼少期はそういった体験は得難かったのかもしれない。

私は恐らくそれに類する教育を受けたにも関わらずこの仕上がりだ。短い留学なんて経験しなかったほうが幸せだったのではと思うことさえあるし、14歳から必修だった第二外国語は友人のパートナーとの会話以外で出番を得たことが無い。


8月に起こったとある青少年犯罪について悶々としている。少年の背景にある地は私の友人のホームなので日頃から情報が多いのだ。友人の思い出話から、ヒンヤリとした想像が走る。インターネット廃人おじさんの寒いギャグではなく、実生活で見聞きした地の話なので余計なことを考えてしまう。実際には当事者にしか何も分からないからイチイチ私が思考を巡らせることではないのに。


買い物について書こうとしたのに脱線が過ぎる。Twitterに愚痴も書けないくらい不寛容な世の中になってしまった。


経口で栄養を摂れないと腸の絨毛がダメになる。何を考えるにも深刻になるのは、腸脳相関によるのだろうか。それともヒトナントカホルモンだろうか。


とにかく強くなりたくてスワロフスキーのピアスを買った。コッパーカラーのピアスを探していたがひ弱なデザインが多かったのでこれに落ち着いた。どこが強さなのかというとビーダマンのお腹みたいなところ。他はマグネット式のイヤカフが可愛かった。以前バズっていた石ぶっ刺しピアスよりも小さく使い勝手が良さそう。石ぶっピアスはあまりにもアイコニックでスワロフスキーのアレです!となるが、こちらは色石感覚でサラリと使用できそうだ。紫と黄色の2色展開らしい。

強くなりたくてエレガンスラズルのネイルも買った。dopeという偏光グリーン。虫虫しい。仮面ライダーを彷彿とさせる。ソルソホームに売っているダークカラーの観葉植物みたいでもある。ナイトクラブというブルーも買った。チャラい名前に反してかなり品が良い色。フランスのヴィンテージ食器の模様のような緑をはらんだ青色。製菓が趣味なので義務的にバニラビーンズも買った。雑に塗ってもサマになる。新作のピーチベージュに青ラメのやつも買った。コンサバのふりして塗ると鯖。ヌラギラと青光り、サイバーなニュアンスがある。黄緑のアイシャドウも購入し、嬉々として眉毛を黄緑で描いている。出産までの間、私のテーマは破壊された女なので。


ラズルさんはチャレンジ精神!みたいなコンセプトかと思いきやひっそりと保守的な色具合のアイシャドウも作っている。ルナソルのパレットでいっちばんさーきに!なっくなーるよーー!がちな色≒くすまないけどハイライトカラー程浮かない、しかし元の肌より確実に目元を際立たせてくれる明るいベージュを発見したので購入した。

こういうベージュのアイシャドウは求めていないラメが入っていたり、ピンクニュアンスになっていたりで、単色が得意なアディクションほかで探しても絶妙に無いのだ。本当にありがとう。


マタニティウェアが嫌いなので妊婦になってから服を増やしていない。小物が増えてゆく。今更黒ぶち眼鏡が欲しくなり、飽きて使わなくなった鞄を売ってお金を作った。そしてセリーヌの伊達メガネを買った。ルシックラディカルのピアスを合わせる予定。アラサーになっても変身ごっこは心が弾む。